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少女終末旅行という物語の魅力の話

■画面の中の少女たちはただ宛もなく車を走らせている。

■奇妙な廃墟は何か意味ありげだが、しかしその意味や伏線が掘り下げられることはない。

 これは要するに、物語とは何なのか、という話である。


 このアニメーション(と原作の漫画)は、所謂ドラマというものを徹底して繰り広げない。

少女2人が主役だ。しかも極限まで文明が滅んだ所謂アポカリプスが箱庭だ。少女たちは宿もなく食料も心もとない状態で旅をしている。つまりはドラマ的キーワードが盛りだくさんだ。

とくれば物語脳の僕たちは勝手に少女2人が喧嘩しながらも互いに助け合い友情を深めあっていくだとか、何か文明が崩壊した極限状態でむき出しになった人間の悪意が云々逆に助け合いが云々、あるいは文明が滅んだのは人類の行き過ぎた科学文明が云々、なんてストーリーを想像をしてしまうところだけど、残念ながらというべきか、この物語では徹底してそんな紋切りのドラマ展開を拒絶しているように見える。

その結果が、前述の一文だけで粗筋を網羅できてしまう大胆な物語構成だろう。


 確かに少女たちは確かに少し喧嘩をしたり仲直りしたり、時々不思議な世界の残骸を目の当たりにしたり他の人とすれ違ったりと幾ばくかのイベントが発生する。けれど、それを何も特別なことことにしない、受け流す力がこの物語には働いている。

要するに、この物語は僕たちを先への展開や伏線にドキドキさせないし、思わぬパッションが迸るような感動のメロドラマ的クライマックスに涙させたりもしない。

故にこの物語はドラマがない、退屈だ、空気だけ、というような意見が出るのも仕方がないことのように思える。


 つまり、こういうことだ。

ストーリーがないように見える。物語ってなんだろう。これって物語なんだろうか。

日常系、なんてジャンルがあるけれど、メロドラマなんてクソ食らえと言わんばかりのこの叙事的な態度と比べれば、少年少女の豊かな感情や人生に寄り添うことで語られる日常系というジャンルははるかに物語している、という見方もあるだろう。

 

 

 


 多分これは、ストーリーとかテーマじゃない、もっと原初的な空想なんだと思う。例えば「もし宝くじに当たったらどうするか」と同じ様な位相にあるような。ただ「もしも」にふと思いを馳せることによって生まれた空想だ、ということ。

だけど、それは何らこの物語の価値を貶めるものではない。

 

 もしも文明が、世界が滅んだら、どうなるだろうか?

そう考えた空想は世界中にたくさんあって、僕たちはそれを「終末モノ」と呼び賛美する。だけど、その「もしも」からどう空想するかは作家の世界観次第で、案外難しい問題だ。

例えば「文明は僕たちを守るルールのようなものだ」と考える人たちがいる。彼らは想像する。文明的な理性が崩壊し、人々が原始時代のような無法地帯で生きることになる世紀末を。だけど、そうなってしまえばそこにあるのは原初的な人と人との争いであったり思いやりであったりの「人間ドラマ」で、つまるところ世界の終焉は主題ではなくなってしまう。

そこへいくと、この物語はどこまで言っても「もしも」に真摯なことが分かる。つまり、

 

「もしもこの愛すべき平和な世界が滅んだ中で生きるとしたら、それは不幸なことなんだろうか?」

 

と思いをはせた時に感じたものこそが、この物語を構成する全てである、ということ。

 それはきっと、こんな思いだ。

確かに今の時代を生きる僕たちは豊かなモノに囲まれていて、途方もなく幸せであるように思える。でも、それってホントかな。もし世界が滅んだ中で、もっと色々なものが欠如した世界で生きて死ぬとしたら、それは不幸なことなんだろうか。僕たちは、胸を張って僕らのほうが幸せだと言えるだろうか。

 

「滅び死にゆく世界で生きることは幸せなことなんじゃないか?」

 

 故に、この物語にとって重要なのは世界観でもストーリーでも人間ドラマでもない。そんな紋切りなエンタメ要素に物語の展開を収束させたりはしない。叙事的に生き残った人々の生き様、あるいは死に様を淡々と描く構成は必然だろう。

確かに、2人の少女はただ旅をしているだけだ。

だけど、その何にも阻まれずに自由な、その生活や社会というものの生々しさから解き放たれ、目に入る不思議なモノに純粋な好奇心を抱く少女の姿を見た時に確かに羨望こそが、きっとこの物語の世界を構成する全てなのだ。

確かに恵まれない世界で生きているはずの少女が、決して僕たちには手に入らない幸福を手にしているように見える瞬間。

この空想が見せつけているのは、そういう残酷な憧れであり、美しさだ。

そういう意味で、これほどに終末というものが持つ魅力、何か現実世界の矮小さから解き放たれた地平線を思い描くこと――に対して真摯に向き合ったポストアポカリプスものは、そうそうないだろう。

 この物語の最終回を見て、そしてEDを聞いたときの読後感、喪失感のために、きっとこの物語はある。

 

 そして、だからこそ、この物語が、描かれる媒体としてマンガ・アニメーションという表現形態を選んだことは、この上なく幸福なことだった。

視聴者の僕たちは少女たちが淡々と生きていく物語に慣れていて、そこで描かれる「世界」に対してドラマやストーリーが云々、世界観のディティールが云々、などという野暮な突っ込みはしない。

純粋な「もしも」、「原初的な空想」を空想し、それを誰かに届けるということ。

こういう作品が許容されることが、マンガ・アニメーションの豊かさなんだろう。